進化の新しい段階

物質からエネルギーと情報へ、そして意識から霊性へ…

古代エジプト 歴史 権威 近代的な世界観は宗教が支配した中世以降から始まった。中世以前では自然現象、誕生、出来事、病気、死、天国と地獄など全ては神によるものとされてきた。そして教会の権力者たちは、自分たちだけが神の意思を解釈することができるとしてきた。その地位を脅かす者と何世紀もの間戦い続けた。

しかし長く続いた教会権力に対する不信感と、自分たちは世界についてほとんど何も知らないということへの気づきから、抑圧されたマグマが火山から勢いよく吹き出すようにルネッサンスが始まった。

印刷技術の発見、ギリシャ哲学の復興、科学の発展である。科学者達の発見は教会権力者たちの主張と明らかに矛盾していた。こうして宗教支配の社会は崩壊し、人々の思い込みも崩れていった。それでも、その傷の痛みと新しい世の中への不安によって、宗教的価値観は伝統と文化の中に隠され無意識化された。

科学は宗教的傷の上に建てられたバベルの塔である。そこには「神を信じない」という体裁を保ちながらも、無意識で神を恐れている科学者の姿がある。

日本人にも宗教や神に対する傷が無意識に抑圧されている。講座においても「神様」という言葉を聞いた瞬間にオカルトというレッテルを貼る人たちを見かける。彼らは「宗教」という言葉もネガティブな意味で使っている。しかし、神やスピリチュアルを否定しているそのような人達であっても、伝統や文化を重んじて墓参りや初詣を行う。先祖の霊や神社の神様、寺の仏像に対しての信仰は厚い。「霊感商法」などと安易に発言する割には、お賽銭を入れ、お守りを買い、お祓いにお金を出す。

無意識に抑圧された傷というのは刺激されると強烈な不快感を感じさせる。それにより不謹慎や非常識、倫理的な問題として騒ぎだすことになるのだ。否定すれば否定するほど確実に保持しているという深層心理分析がこれに当てはまる。

科学 還元主義 懐疑主義 物質主義 科学においては、魂や神を感情的に否定すれば、むしろ科学的ではなくしてしまう。なので、科学的というならスピリチュアルについてもしっかり研究した方がよい。

客観的観測によって、銀河や星の動き、人間の身体の仕組み、遺伝子や素粒子など科学は次々と明らかにしていき、物質的な生活は便利で安全になって行った。

しかし、科学はスピリチュアルな側面にはまだ入っていけていない。脳の働きを物質的に分析して心を理解しようとしてもいる。そして、人工知能によって心も作ることができると信じる者も出てくる。コンピューターが自我を持ったらどうなるのかということを考えては映画も作られ、ロボットに対しても倫理的な規範の必要性を感じてしまう。

科学では扱えていないなら存在しないのだ、こうしてスピリチュアルというテーマはあまり重要ではなくなった。このテーマは宗教に任せようということになったのだ。神や魂は宗教における概念とされ、霊的な体験は脳の問題として扱われ、不必要とされただけではなく、正しくないこととされたのだ。

この社会現象により多くの宗教では、本物の霊的な体験について議論することよりも、世俗的な社会活動に力を注ぐようになった。そして私たちは「もっと楽に生活をするために、もっとお金を稼ごう」と自分に言い聞かせるようになった。

進化の新しい段階へ しかし今、世界中の科学者達や開かれたセラピスト達が何かに導かれているかのように、この世界と人との関わりにおける重要なテーマに気づき出した。どれほど多くの科学者達がスピリチュアルな傷を持っていたとしても進化の流れは止められない。

人の理解は物質的な側面からエネルギーの側面へ、そして情報の側面に移り、さらにそれらを観測している者という意識の側面へと進んで行った。こうして歴史を知ると、これから向かう先は意識の起源、つまり霊的な側面であると見えてきた。

神や宗教の傷を解放すれば自分を超越した存在に対する純粋な愛が流れ込んで来ることだろうし、その繊細な感受性を存分に発揮して命のドリーミングにつながることも容易だろう。

秘教、奇跡のコース、聖なる予言、ニューアース、ノンデュアリティ、リコネクション…次々と世に現れて来る偶然の一致が私たちを突き動かし、一つの潮流としてある目的へと向かわせている。このプロセスは霊的進化とも呼ばれている。

霊的進化というのは、物質という情報とエネルギーと意識の一部分だけの知覚ではなく、もっと広範囲に知覚を広げることができるようになるという進化である。

これにより、この世界と意識の仕組みを捉え直すことになり、人生の意味も価値も大きく変わっていくのだ。 これが「目覚め」と呼ばれている生命が獲得する新しい意識の状態である。

スピリット = 一なる「霊」 ≠ エゴの「魂」

「霊」は「本来の自己」でありガイドであり、「魂」はエゴの幻想である。

エゴとガイド  スピリットとは「霊」のことであるが、ややこしいことに「霊」以外に「魂」という言葉もある。しかし、これら二つは全く違うものである。  「霊」とは全一なる状態であり「本来の自己」のことである。それは完全に一つであり分離などしていないので、一人二人と数えられるものではない。ドリーミングの土台はこの一なる「霊」である。

 一方「魂」というのは個別の非物質体のことであり、それはドリーミングにより保たれている。「霊」とのつながりはあるが、純粋な「霊」ではなく、エゴによって無数に分離した自分のエネルギーの体という幻想である。

 「魂」が作られた理由には二つの可能性があり、一つは霊的進化の目的としてあえて分離した「霊」の実験。もう一つはエゴにより分離した思考実験である。霊的進化とするなら「霊」を肯定的に捉えることになり、エゴの実験とするなら「霊」は否定される。

 ドリーミングセラピーで重要なポイントは、「魂」としての自分がドリーミングを意識で操って治療するのではなく、「霊」がドリーミングを修正する(取り消す)ことをゆるして、自分はそれを邪魔しないということである。

 霊的進化というのは、「魂」を取り消して「霊」として目覚めるということである。ただし、他の「魂」を否定しろということではないので注意が必要である。「霊」は全一性であるため、他の「魂」を知覚したなら、それは紛れもないあなた自身の投影である。どの「魂」も「霊」の一部であるため、それらを否定するなら、あなたは「本来の自己」の全一性を否定することになる。そのため、必要なことは「ゆるし」となる。

 ドリーミングでは「先祖の霊」とは言わない。それを表現するなら「先祖の魂」である。そもそも先祖というあなたではない別のものが「霊」であるはずがない。それは個別のエゴである。「霊」はあなたでもあり、先祖でもあり、それらのようなカタチを持たない全一的状態である。「霊」を理解しようとは思わなくても良い、理解を超えているのが「霊」である。

 「輪廻転性」という考え方もまた、エゴの個別の「魂」の上に成り立つ。時間が過去から未来へ流れている世界という概念が生まれるのもエゴの思考体系においてである。「霊」に時間などない。「霊」は分離していない。このことを理解することはこの世界、この体、この思考という限界を持ったエゴには不可能である。

 では、どうして「霊」を知るのだろうか。それは理解ではない。知らなかったものを学びによって新しく知ることではなく、自分が本当はどういう存在なのかを思い出すのだ。これが「目覚め」と呼ばれる所以である。

 人はやがてドリーミングを普通に認知し、普通に使い出すようになるだろう。それはまだ「霊」への目覚めではなかったとしても同じである。しかし、自分で全てを操作しようとするとあまり上手くいかない。 例えば、自意識で体を操ろうとすると大変なことになる。免疫力をどうしよう、血中カリウム濃度をどうしよう、ホルモンバランスをどうしよう、呼吸をどうしよう…となってしまう。自律神経は自律的だからこそ良いのだ。

エゴが弱まれば必要なことは必要な時に必要なだけ起きる。「霊」は自律的なのだ。なので、もし意識を使いたいなら、ドリーミング全てをコントロールするよりも、「霊」とつながって全てやってもらえばよいのだ。それなら不摂生を避けられる。エネルギーのバランスも良い。

スピリットを知るための視点の段階

スピリット「霊」を理解する視点の段階:「囚われた視点」→「開かれた視点」→「気づきの視点」→「智識の視点」

霊性という新しい時代の流れで大切なのは、従来の「霊」に対する思い込みから解放されることである。ボディ・マインド・スピリットという言葉をよく聞くだろうが、そのスピリットとは何か、マインドと何が違うのか、ということを理解していないとこの三つの関係を知ることはできない。

スピリットというのは「霊」のことである。スピリットの理解には視点の段階というのがある。これはスキーのコースのようなもので、初心者が上級者コースを滑ろうとしても怪我(思考的混乱や心理的傷)をするかもしれないし、コースを見ただけで腰を抜かしてしまうかもしれない。なので、段階が高いから偉いとかそういう意味ではなく、何事にもプロセスというのがあるということである。

無段階「囚われた視点」

どんな人生だろうと、あなたの選択の結果である

ego、パーソナル、囚われた視点 第一段階以前の無段階の状態の者達の「霊」の理解はさまざまであるが、それは親や先輩からの影響が強い。「霊」という言葉さえ嫌うものもいれば、「霊」を信じない者も、「霊」を信じていて恐れている者も、「霊」が見える…と思っている者も、「霊」を使って人を騙す者も、「霊」を使って人を助けようとする者も、「霊」と宗教を同一視している者も…本当に様々である。

実はこの無段階の話しは様々な自己啓発本の中でも出てくる。宗教団体における教育の一番初めは無段階の刺激であるため洗脳の一段階だと思われることもある。なので、この無段階のことをテーマとするだけでタブーであると考える人もいる。しかし、これから視点の段階を上げていく上ではまず今の視点を理解する必要があるため、仕方がないことである。無段階の視点は、親や先輩などから教えられたことを土台としている世界観、人生観だが、親や先輩は土台を与えただけであり、そこでどうするかを選択して来たのはあなた自身なのだ。

人は人生の中でほんの少し違和感を感じる時があっても、それは無かったこととしてやり過ごしている。親を大切にすることは良いことである。手間暇かけて大切に育ててくれたことに対する感謝は、本当の感謝かどうかは知らないが、こんな自分を大切にしてくれた親を大切にすることは良いことのように感じる。こんな感じで、巧妙に家族のバランスが作られていく。

様々な心理的な力関係が働いている家族という集団、両親は良心と関係がある。あなたの良心の背後に何があるかということよりも、良心を持つことが良心のようなような無茶苦茶な理論をあなたは飲み込んでいる。これが洗脳された人生という無段階の状態である。「このことの何が悪いのか?」と思ったなら、すでにそこに無段階の特徴が出ている。無段階の者が大切にしているのは「良い者」という呪縛である。なので良い悪いという判断は大切なのだ。むしろこの土台を揺るがしてしまう視点の段階を上げることはタブーである。

第一段階はデリケートな部分を刺激する。第二段階ではデリケートな部分を超えていく。第三段階では無段階の者が恐れている真実を受け入れる。なので視点の段階というのは、無段階の者にとっては危険信号が鳴る領域であることは間違いない。とにかく無段階の者は常にイライラしているのが特徴である。つまり、つねに恐れているのだ。災いが降りかかるのを恐れ、金銭を失うのを恐れ、誰かに騙されるのを恐れ、病気や怪我を恐れ、人から非難されることを恐れ、家族や友人を失うことを恐れ、死ぬのを恐れ、人生のコントロールを失うのを恐れている。なので、これらの恐れが渦を巻いている感情に蓋をして無かったことにする。これを抑制という。しかし人は恐れを一瞬でも感じるのが嫌なので、感じる前に蓋をする。無意識で行うので、これを抑圧という。

抑圧された人の言葉はわかりやすい。「私には問題はありません、家族や仲間に感謝していますし、仕事もありますし食べてもいける、問題を無理やり上げるとすれば、今晩の夕食どうしようかぐらいでしょうか、ははは…」という感じである。でも、世間では感情のマネージメントが流行っている。怒っていることに気づいただけでも良いことだ。危険信号に気づいたのだからここから段階を上げていける。それでも無段階なので、そんな危険信号も無かったこととして無視できるだろうが…。あなたの周りにもいないだろうか、この人にこそ学んで欲しいというイライラしている人が。もしかして、それはあなたが他者に思われていることかもしれない。

ではそんな他者を変えようとするだろうか。心を操るブラック心理学というような本を買って挑戦するだろうか。そうやって他者や世界と戦って自分の居場所を作るのがあなたの人生だというなら、その考えは誰から、どこから学んだのだろうか。あなたは自分が正しいので周りを変えようとしてはいないだろうか。

あなたの人生はそれがどんな人生だろうと、あなたの選択の結果である。もし変えていきたいなら、勇気をもって危険信号が響く領域へ踏み出すことだ。ここで引き返して正しき良識人となることもできる。無段階は悪くはない。自動思考に囚われた人生であっても、素敵な毎日を生きることはできる。しかし、死ぬ瞬間にあなたは思うかもしれない、「なぜあの時私は真実に対して勇気を持たなかったのだろうか…」と。門は開いている、求めれば与えられる、引き返すか踏み出すかはあなた次第である。これが人生の選択というものである。選択はいつでもできるが、時間とは「今、この瞬間」しかないことを最後に伝えておこう。

引き返すなら視点の段階など知る必要はない。むしろ知らない方があなたのためである。でも、残念ながらこの文章に出会ってしまった。あなたはエゴを強化してこの段階と戦うこともできるし、スマートに無かったことにして忘れ去ることもできるし、勇気を持って段階を上がることもできる。段階を上がった人は偉い人ではない、偉さは関係ない、誰かと比べるものではないからだ。段階を上げるというのは、自分を変えていく孤独な道かもしれない。その時が来たら、自分の中のイライラと真に向き合う覚悟も必要だ。無段階のままでいても、段階を上げていっても、そこにある人生はあなたの選択の結果なのだ。

第一段階「開かれた視点」

恐れるな、見ろ!

開かれた視点 第一段階の視点は、人としての尊厳や感謝、生きる希望や人生の目的などを表す。この第一段階はスピリチュアルという言葉を使わなくても大切さを理解しようとすればできる。どこにスピリチュアルが関係しているのかということさえ思ってしまうくらい、受け入れやすい段階である。しかし、その背後にはちゃんとスピリチュアルが関係している。それがどこに、どのように、というのを考えるのがこの段階である。

スピリチュアルという言葉に抵抗があり、宗教という言葉をネガティブに捉えられている場合、この第一段階でつまづくことになるだろう。宗教ではスピリチュアルを用いて教義を作っているが、その目的は組織化であり、スピリチュアルそのものよりもその集団が何のために何を言い何をして信者はどうすべきかということを伝えるための道具としてスピリチュアルを使っているだけである。なので、正確には宗教はスピリチュアルを利用しているが、別物であると捉えたほうが良いだろう。量子力学という言葉を宗教団体が使ったからと言って、その教義は物理学であるとは言えないのと同じである。逆に宗教でなくても、哲学でも、心理学でも、物理学でもスピリチュアルを使うことはできる。

また、多くの人にとっては宗教の話しはタブーのようであるが、それは恐れているからである。恐れというのは素直に見ないで目を背けているということから起こる感情である。宗教は悪くはない。善悪の特に「悪」について話す時は注意が必要である。その判断はどのような土台の上になされるのか、法律か、あなたの倫理観か、あなたの属している集団の背景にある文化や伝統かをよく考えてみる必要がある。絶対的な「悪」というのがあるのなら、それは何なのだろうかをわかった上で善悪を判断することをすすめる。ただし、絶対的「悪」とは何かという定義について明確にできていなければならないが、果たしてできるだろうか…。

宗教団体には問題というものもある、それは科学に問題があるのと同じである。宗教団体の問題を挙げて、だから宗教は危険であるとするのは、科学の問題を挙げて、だから科学から離れろというのと同じである。問題というのは宗教か科学かということではなく、そのどの部分にどのような危険があるのかという議論の過程に出てくる。このような開かれた考えを持って、今まで自分の中で「当然」としてきた思い込みに光を当てるのが第一段階の視点である。

開かれた視点でスピリチュアルの存在について素直に答えるなら、それは「解らない」である。何も知らないという視点に立つことが最もニュートラルではないだろうか。 

スピリチュアルを語る上でよく出てくるのは「幽霊」である。ここにも「霊」という言葉が使われているが、スピリチュアルと幽霊はイコールではない。幽霊論でも「霊」という言葉を使うが、それは「魂」という言葉に近い。なぜなら、幽霊の「霊」は「パーソナルな魂」のことを表しているからである。例えば、「全てが一つの霊である」とした場合、そこにパーソナルが入る余地は無い。そうなると個性的な幽霊は、自分と同じ「一つの霊」の一部でしかないのだ。そこで混乱を避けて、「霊」と「魂」は分けて考える必要が出てくるかもしれない。個別の「魂」という存在そのものについては第二段階で扱うので、第一段階では「解らない」という扱いで構わない。

第一段階では大切なのは「恐れるな、見ろ!」である。解らないものを解ったつもりで話していることに気づき、その背後に隠れているものにちゃんと目を向けるのだ。スピリチュアルというのを知ったつもりで非難するのではなく、スピリチュアルについて誰かの意見を鵜呑みにするのでもなく、自ら真摯に向き合うことから始めるのだ。まずはこの第一段階でニュートラルな「開かれた視点」を獲得するとこれが学びの土台となる、そして第二段階へ進んでいく。

第二段階「気づきの視点」

考えるな、感じろ!

awakening、目覚め、悟り、気づきの視点 第二段階の視点は、「自分とは誰か?」ということを思い出すことである。第一段階で獲得した視点で捉えてみればわかるだろうが、「他者とは何なのだろうか?」という問いについてもここで扱うことになる。自分を抜きにして他者を観察できるはずがないのだ。なので、今まで当たり前のように捉えてきた他者についても新しい視点を獲得することになる。他者や世界や出来事といったさまざまな体験はどこで起きているのかを真剣に観察するのだ。するとそれらを観察している自分が必ず在ることに気づくだろう。

ここで他者や世界や出来事を鏡として使うことができるようになるのだ。観察している自分という存在はどこにいて、どのような特徴があって、何をしているのかということに注意を向けるという新しい「視点」の獲得である。第一段階で思い込みから自由になるが、第二段階では頭での理解を超えていく。

ここでは慎重に言葉を選ぶ必要がある、周りから面倒な人だと思われるかもしれないが、それは言葉の特徴を知っているからである。言葉というのは指のようなもので、方向を指すことはできるだろうが、直接そのものを表現することは不可能である。事実は言葉ではないからだ。なので自分を言葉で説明することなどできないことを、体験を通して学ぶのが第二段階である。スピリチュアルを知るためにはどうしてもこの学びが必要である。その理由は、多くのスピリチュアルについての教えが文化や伝統や宗教によって色付けされ、言葉で定義され、本質が掴みにくくなっているからである。

誰も自分で触れなければ、それを知ることはできない。でも物質でなく、場所でもないものにどう触れるのかということが問題である。存在しないのであればそれでもいいが、手で触れて、目で見えて、現在発明されている何らかの機器で測定できないからといって、まだ存在していないとは言えない。そして、もしかしたら多くのスピリチュアリストが言っているようなチャクラは、本当は無いかもしれない。もしかしたらチャクラはあっても、それは古代のインドの本に書かれている表現よりも、もっと違う表現の方が適しているものかもしれない。言葉での表現にはどうしても時代や文化が色濃く影響してしまうものだからだ。

自分とは誰かという問いは、直接的な体験を通して注意深く観察された末に獲得される新しい意識の状態であり、その時に明確な答えをあなたの言葉にできるということだ。ただし、その言葉はあなただけの言葉であり、他者に伝えたところでその人のその言葉の定義と理解力に依存するのは仕方が無いことである。どんな人でも自ら進まなければならないのだ。

第二段階で気づきの視点を獲得すると、自分の思考や感情や体の感覚が変わってくる。あらゆる体験に、観察している自分と気づきとして浮かび上がってくるものの間に隙間ができるのだ。これはメタ認知とも言われるが、これが自動的にどんどん鍛えられていくのが第二段階の特徴である。この段階では「瞑想」という行為についてもよくわかってくるだろう。マインドフルとは何かということも本当にわかってくる。意識の構造や、意志の使い方と影響についてもわかってくる。それを他者に伝えられるかどうかはその人のやる気とスキルによる。

この段階の時、身体で起こっていること、感情の本当の意味、時間と空間についての感覚、他者という存在について重要な気づきを多く得て来出す。周りから見ても普段通りのあなたであっても、あなたの中では世界の体験が違っているのだ。これらの気づきによって第三段階へ自動的に導かれていくのだ。

第三段階「智識の視点」

抵抗するな、受け取れ!

神、愛、悟り 第三段階の視点は、「源(source)」を思い出すことである。気づきの視点を獲得すると、体験の中に隠されている「何か」がわかってくる。これは思い出すというような感覚に近いが、この段階について言葉で説明することは難しいので、あなたがどのような気づきを得るかは知らない。ある人は突然「啓示を受ける」という体験で気づくかもしれないし、ある人は瞑想の中で静かに「悟る」という体験で気づくかもしれないし、ある人はイメージとして浮かぶという体験で気づくかもしれないし、ある人はワクワクするようなアイディアを得る体験で気づくかもしれない。

ただし共通するのは、「なぜか知らないがすでに知っていた」という感じである。自分を成り立たせている土台、「我在り」ということを支えている「大いなる何か」に少しだけ触れた瞬間である。これは「神秘体験」であるという人もいるが、恍惚とした素晴らしいトリップ体験ではない人もいるので、強い変性意識状態かどうかということはあまり重要ではない。この段階での学びは、決してトリップする薬で簡単に達成できるものではないのだ。

第三段階の視点は「智識」という状態である。「知識」は知らなかったものを知ることだが、「智識」はすでに知っているものを思い出すのに近い。どこで学んだかのかは知らない。それは本能のように、内側にすでにある記憶なのだ。自分は誰かを知るにつれ、このすでにある記憶に触れ出す。これは自分の「源」との関係が今も続いていることの証拠である。自分は「源」ではなく、「源」に支えられていて、「源」の力を利用して、今の世界が存在することを思い出す。「源」というのはかつての表現では「神」と呼ばれていただろう。安易に「神」と表現できないのは、「源」は宗教や文化とは違う事実であるからだ。

過去の人々の言葉でこれをうまく説明しているものはない。なぜならそもそも「源」を言葉では説明できないからだ。それでも努力するなら、「神のような大いなるもの」という感じでしかない。「大いなるもの」が「大いなる者」でないところにも注意してほしい。「源」に人格はない。人ではないものを者と表現できないし、人の理論でそれを証明することはできない。

この「大いなるもの」をもっとスピリチュアル的な表現で表すなら「グレイトスピリット」ということになるのだろうか。その場合ピリット「霊」が「一つの霊」を表現していなければならない。個性的な「魂」と「源」は違うからだ。「源」は存在であるが、それは第三段階で受け取る智識であって、言葉や文化や今までの学習の枠に縛られた第一段階以前では決して受け取ることができない、または、間違って捉えてしまうものである。

知識は智識とは違うということをもう一度思い出して欲しい。知らない者が外側から教えてもらえるようなものではないのだ。それは、目の前に光の柱が現れ、そこに輝く素晴らしい存在が降りて来たとしてもそれは「源」ではないということである。それは、あなたの中に「源」から流れ込んできている神聖なエネルギーが関係しているのかもしれないが、そこに見えているのはあなたのイメージを刺激して知覚された幻であり、その幻が「源」の“姿”だということでは決してない。「源」に“姿”はない。なぜならあなたが知覚するものは全て、あなたに属するからである。これは第二段階の気づきである。「源」は知覚できない智識である。このことを理解できるのは第三段階に入ってからなので、今理解できなくても良い。

第一段階以前での「神」は、一神教や多神教という教義においてのズレから始まる。「神」という定義を宗教集団と同一化して論じている学者もいる。そして「神は妄想である」と決定付けてもいる。「源」と「神」は同じものを指しているが、すでにその言葉という指は汚れていて目立ちすぎ、使い物にならないようだ。

日本人の中には「神」という言葉を聞くとすぐに「やばいカルトだ!」と恐れて逃げていく者も多い。恐怖と不安に敏感な日本人の本能的な反応でもある。恐怖というのは真実を見ないことから強化される。見えないから怖いのだ。だから宗教や神について真摯に向かい合えば「神」という言葉の定義も変わるだろう。面白いのは、日本人は「神」と聞くと避難するか非難するが、教会で結婚し、初詣で神社に行って、占いを信じて縁起を担ぎ、死んだらお坊さんにお経を上げてもらい、先祖の墓を大切に守っている。文化というのは巧妙に人の心を操作して、そうであることが正しいという根拠の無い自信を持たせ、疑問を持つことをタブー視させている。そして、そのタブーに触れただけで「不謹慎」という攻撃が正当化されるような仕組みになっている。

これは「洗脳されている」ということだが、それを公の場で言うと危ない人だと思われるだろう。「先祖を軽視しているのか、人に感謝を感じないのか、国や文化を大切にしていないのか、みんなと同じになった方が安全じゃないか、思いやりというのがないのか…」という論点とズレた反応も出てくる。これらを言っている人の心の中には強い感情が沸き起こっている。その感情は恐れであるが、普段抑圧されたストレスの発散として攻撃の正当性を得るチャンスを狙って出ているものもある。そして、感情が強ければ強いほど、抑圧が強ければ強いほど、人は攻撃的になる。これが無段階の視点の普通の反応である。抑圧にも気づいていないだろうが、気付かせようとしてはいけない。彼らは恐れているのだから、気付かせようとするのは火に油をそそぐようなものである。

こうして声が大きい者達の「正しいものは正しい!」という無茶苦茶な理論がまかり通る仕組みの土台が文化である。地球が平らであると思い込み、それは違うのではないかと疑問を投げかける人を火炙りにするのと何が違うのだろうか。みな真実を知ることを恐れているのだろう。しかし、第一段階以前では難しいことだろうから仕方が無い、そしてこのことは決して悪くはない。

第一段階では「神」というのが文化に根ざした概念である。しかし、第三段階では「神」という言葉にリアリティがある。それは宗教の信者というわけではない。むしろ逆で、宗教という文化からの自由である。新しい学びの視点を獲得しようとするなら、べつに誰かに告白する必要はないが、自分の中だけでも勇気を持ってタブーを直視する必要がある。「源」が言葉を話すわけはないが、もし声というのがあるのなら、それはあなたにしか解らない、あなただけのために語りかける声であろう。

第一段階では「恐れるな、見ろ!」と励まされ、第二段階では「考えるな、感じろ!」と支えられ、第三段階では「抵抗するな、受け取れ!」とはっきりと聞こえる。この段階で「愛」とは何かを本当に思い出すのである。無段階での愛は「愛」とは全く違うものであり、愛に執着すると問題も出てくる。しかし第三段階では「愛」とは「源」の力であることを思い出し、あなたを支えている全てであることに本当の感謝が沸き起こる。

感謝というのはすべきものではなく、する必要があってするものではなく、したいからするものでもなく、オキシトシンによって感じるものでもなく、頑張ってするものでもない。ましてや体裁を繕うために見せかけで演じるようなものではない。感謝とは、中から湧き起こってくる美しい情動であり、それによって世界が違って見え、あなたに生きる希望と力を与えてくれる「愛」の入り口で感じる感情である。

これはあなたに金銭的な健康的なメリットがあるから感じさせているのではない、それらは副産物であって、真の目的は別にある。あなたが自分自身と出会うために、その道しるべのためにこの感情があるのだ。「愛」と感謝は「美しさ」と関係がある。これらは美しいと感じるのだ。なので美しさの流れを受け入れれば受け入れるほど、感謝は沸き起こるだろうし、あなたが「愛」でできていることを実感するだろう。第三段階というのは「源」から与えられている「愛」を受け取っていくという完全に受動的視点なのだ。


深瀬 啓介 Mind Essence