ドリーミングの謎

ドリーミング[Dreaming]=情報[Data]とエネルギー[Energy]と意識[Mind]

アボリジニ アート 人体のドリーミング  この世界は、水や鉱物や植物や動物といった“意味”を持つ「情報」と、それらを成り立たせている「エネルギー」によってできています。「情報とエネルギー」は「私」によって観測されることで存在が確定されます。

 この「情報とエネルギーと意識」が一つである様を表現したのが「ドリーミング」です。人は「情報」は情報、「エネルギー」はエネルギー、「意識」はまたそれらとは別なものとしてバラバラに捉えようとしますが、それらはドリーミングの様々な側面に過ぎません。

 ドリーミングはもともとオーストラリアの先住民であるアボリジニの哲学から得た言葉です。アボリジニの「ドリーム」には生活や旅という意味があるそうです。そして、アボリジニは旅をしてその記憶や痕跡が残るように、人や土地にエネルギーが宿ると考えているようです。この痕跡を残すという行為や痕跡のことを「ドリーミング」と呼ぶそうです。

ここで重要なことは、「痕跡を残す行為や痕跡」ということです。痕跡を残すのは意識で、残されたのは「情報とエネルギー」です。ドリーミングはこの「情報とエネルギーと意識」を一つとして表現するのに適しています。

アボリジニ アート ドリーミング  ドリーミングのように「情報とエネルギー」という側面からとらえると似ているものは世界中にあります。それはオーラ、氣、マナ、プラーナ、宇宙のエネルギーなどと呼ばれています。ドリーミングもこれらの言葉と同じようなものも指しますが、特に人体から発せられるエネルギーというわけでも、宇宙に存在するエネルギーというわけでもありません。「情報とエネルギー」だけではなく、そこに関わる「意識」も一体となったものを指しているのです。

ドリーミングは肉体も含め宇宙全てを構成する要素です。「何かから発せられている未知のエネルギー」という意味だけではなく、そのものを構成している素粒子の存在さえも支えている要素として「全て」なのです。

ドリーミングは他のドリーミングと相互的に影響し合って変化し続けます。形が変わらないように見えてもドリーミングは変化し続けています。形というパターンを保つためにドリーミングは変化し続けているとも言えます。

 一つのドリーミングが一つの状態をとっている分けではなく、時間と空間を超えて、無数の可能性として多次元に同時に存在している状態にあります。

この無数の状態に対して意識は選択的に一つの状態を決定し、それに実体を与えます。実体といっても、実際には「意識」によりイメージされクリエイションされたもので、これを私は「創像」と表現しています。

ただし、選択的であっても、表面意識によって選択されているかどうかは分かりません。深層意識において選択された場合は、表面意識での自分が選択したという自覚を持つことはできないでしょう。

※ドリーミングや幽霊や未来などを見たり感じたりできるといっても、その人が「癒されている人」ではありませんのでご注意ください。私は「癒されている人」ではなく、皆さんと同じ「“癒しの道”を歩む者」です。
※ドリーミングは霊的な真実ではなく、単なる現象に過ぎません。

ドリーミングの観察

Dreaming Art, Aura Art

 ドリーミング(Dreaming)は一般にオーラや氣と呼ばれていますが、あえてドリーミングと表現しているのは、それが“人体から出ている何らかのエネルギー”という解釈ではないためです。

これは光の人(非物質的な存在)やガイドによる情報から得られた知識ですが、ドリーミングは肉体から出ているのではなく、肉体がドリーミングの“場”(生命場のようなもの)から生じているということのようです。肉体という物質を中心に分離して捉えてしまう私たちの“分離の視点”がそう思わせるのでしょう。

人は肉眼で見られている世界を原因として捉える習性がありますが、インナービジョンで観察しても全く逆で、肉眼では見れないドリーミングに原因があって、その結果として物質的な世界に「像」が現れているのが分かります。

「像」はあくまで幻影であり、それ故ドリーミング(夢見)と呼ばれるのです。

Dreaming Art, Aura Art

本当によく観察すると、この世界は光の粒で出来ています。その光の粒はとても細かく敷き詰められていて隙間などありません。空間か物体の輪郭かというのは光の粒の中の濃淡に過ぎず、その濃淡も注意の向け方で見え方が変わります。

ドリーミングの光の粒はとても細い納豆の糸のように繋がって微妙に色を変えながら動いているように見えます。

Dreaming Art, Aura Art

 空を見るとそこにはたくさんの帯や糸状の色光が見えます。この色光は土地や建物、木や人々につながっています。その場所にはその場所の色光や形の特徴があるようですが、いつも同じではなく変化しています。

 人の賑わいがある場所や開発が進む場所と、人気がない場所や店舗が入ってもすぐなくなる場所、寂しい感じがする場所の色には違いがあります。人の賑わいがある場所は彩度が強く明るいですし、たくさん光の帯があるか、大きく太い光の帯があります。

 場所によって色の偏りがあるようで、青緑色から紺色の場所はパーソナルな感じで、賑わいの中にも静けさがあります。金色や青紫はおしゃれでハイソな感じがする場所です。美術館は深い青色や透き通った紫色ですが、開催されている展覧会や何かのイベントによって色が変わります。場所の色光はそこにいる人々の状態によって変わるようです。

 黄緑色や黄色が多くなってくるとゲームセンターやカラオケ、パチンコなど賑やかな店が多くなってきます。しかし、タバコの煙が多い所になるとくすんだ黄茶色やくすんだ青灰色のような色が多くなります。たぶん、タバコの煙自体ではなく、それを吸う人の体のドリーミングが濁っているのかもしれません。気持ちは良くても体は苦しんでいるようです。

 オレンジ色や赤色が強くなってくると飲食店の賑わいが強くなって来ます。お酒のお店が多い繁華街になるとくすんだ色が多くなります。ネオンの色はビビッドなのですが空間の色は暗い灰色です。

Dreaming Art, Aura Art

新しい店舗の中ではドリーミングはスッキリとしていますが、古くなるとドリーミングは色も形も動きも複雑になります。植物が多い場所のドリーミングも動きも複雑ですが、乱雑ではなく大きなドリーミングの流れがあるように見えます。植物同士がつながりあっているようです。当然、その場にいる人も自覚があってもなくても植物たちとドリーミングはつながっていきます。

人体のドリーミング

Dreaming Art, Aura Art

 細かく観察すると、ドリーミングにはいくつか層になっているように見えます。一つは体に添ってぴったりとしている固そうな層です。体の表面の層の外側に広がるのはさまざまな色を持つ層です。色光の細い糸のようなものもを触ると指先にくっつきます。触感はピリピリとしたものや柔らかく温かいもの、弾力があるものから引っ張る力があるものなどさまざまです。

“チャクラ”も薄っすらと見えますが、インド哲学のような梵字や花弁は見えません。これは人体内部と外の各層をつなぐエネルギーの道のようなもので、よく観察すると出入りするエネルギーの渦のように見えます。これは、例えば宇宙から見た地球の台風のように見えます。周辺の色光を巻き込んでいる大きな竜巻の中には小さな細かいコイルのような竜巻がたくさんあります。

Dreaming Art, Aura Art

 少し離れて見るとさらに広がった別の層が見えます。この層は7mから10mぐらいある大きなもので、「膜」の表面には縦に細い繊維状のヒダがたくさんあります。触るとサラサラとした柔らかいヒダの感触があります。

Dreaming Art, Aura Art  焦点を変えながらドリーミングの「膜」を観察すると、そこにはいくつか違いがあることがわかります。それぞれの「膜」の内側には、その「膜」が影響を及ぼしている“場”があります。外側の「膜」は内側の「膜」に影響を与えているように見えます。

 「膜」以外には、肉体の各所から出ている色光の帯や、頭から股にかけて体を大きく包み込んでいる磁界のようなドリーミングの“場”があります。これらが何なのかは不明です。

(1)物理的な肉体:「膜」によって作られる肉体の像。

(2)内側の「膜」:物理的な肉体を形作っている。肉体からほんのわずか離れてぴったりと包んでいる固めの「膜」。

(3)中間層の「膜」:内側の「膜」を形作っている。個性的な色がよく見える層。意識によって肉体の位置とは別に動かすことができる。魂の体のようで、この「膜」だけの肉体が無い存在もたまに見かける。

(4)外側の卵型の「膜」:中間層の「膜」を形作っている。意識によって簡単に大きく広げることができるのが特徴。意図すると数十メートルくらい広がる。どこまで広げられるかは個人差があるようだ。安心すると広がり、不安があると小さく縮んでしまう。縮むと硬さも増して感じられる。

Observation of Dreaming Field. Keisuke Fukase (深瀬 啓介),2019.

インナービジョン(Inner Vision)

Dreaming Art, Aura Art

 ドリーミングの色光は物質に固有の絶対的なものではなく、それを見たり感じたりする観察者本人や周りの人の意識の影響を受けて色や形を変えます。人のドリーミングはその人の心と体の状態だけではなく思考や感情によっても変わります。一人一人みんな違うので何を考えているかやどのような心と体の状態かは一目で分かるものではありません。

 ドリーミングは意識的に動かすこともできます。意識を向ければ手のドリーミングを伸ばして粘土のようにして形を作ることができます。球体や立方体といった基本的な形はすぐに作れるようになりますが、星型や花など複雑な形もコツさえつかめば簡単に作れます。私の経験では長い時間集中して両手の間にバラを作って遊んでいたら、ドリーミングは見えないと言っていた人が「両手のひらの間に丸く白っぽく光っているものが見える」と驚いていました。

InnerVision  ドリーミングを見ているのは肉眼ではないかもしれません。なぜなら意識の焦点を変えれば、肉眼では見えないはずの体の中のドリーミングも見えますし、目を閉じてもドリーミングは見えるからです。また、上手くいけばドリーミングを意識で開いて中にある情報を見ることもできます。情報と言っても映像なので見ているものが何なのか、どんな意味があるのかは分かりません。でも人のドリーミングの場合は感情が伝わって来ますので、たぶんドリーミングの情報というのはとても抽象的なものなのだと思います。

 ドリーミングの情報は目を閉じるともっと良く見えます。目を閉じると目の前にはスクリーンがあります。中央の大きなスクリーンの周りには小さなスクリーンがたくさんあります。そして、スクリーンごとに写っている映像が違うのですが、流れている時間の速度も違って見えます。周りのどれかのスクリーンに意識を向けるとそのスクリーンの映像が拡大されて中央のスクリーンに映し出されます。

 映像は3Dで、触ろうと思えば手触りも温度も匂いもあります。リアルというのが何かは知りませんが肉体的な触感とは違います。このスクリーンを見ているような知覚を私は“インナービジョン(内的視覚)”と呼んでいます。

「愛と命と光」=「智慧」

全一性[Oneness] → 愛[Love] ・命[Life] ・光[Light]

進化の新しい段階へ  ドリーミングは肉体も含めて宇宙の全てを構成する要素ですが、あらゆるドリーミングの下地は全て同じ「愛と命と光」です。ドリーミングの下地としては「情報」は「愛(Love)」で、「エネルギー」は「命(Life)」で、「意識」は「光(Light)」です。

ちなみに、「光」は私たちが日常で目にする“光”のことではありません。“光”は知覚された「現れ」の一つに過ぎません。それが神聖な雰囲気を感じさせるのは、私たちが“光”に「光」の性質を感じているからです。

“光”は影を作りますが、影は“光”と戦ってはいません。影を作るのは“光”を遮る物質であって、それは私たちの観測によるものです。影を悪いものとみるのは、「自分」の中にある抑圧された恐れを感じるからであって、影自体は良くも悪くもない単なる現象です。

「光」は“光”ではありませんので、影という概念を持ちません。影なき完全な「光」をこの世界で知覚することはできません。

どのようなドリーミングもエゴの幻を超えた「全一性(Oneness)」によって支えられています。つまり、「源(Source)」によって支えられているのです。そして、「源」の延長として目覚めているのが一なる霊(Spirit)である本来の「自己(Mind Essence)」です。

「源」と「自己」との関係は「愛」であり、その「愛」の中で目覚めた本来の「自己」の意識は「光」であり、その間に働く力は「命」です。

 魂は「自己」の一なる「光」を分光してあらゆる色を作り出すようにドリーミング(夢見)します。

ドリーミングは幻かもしれませんが、それは「自己」のアート(自己表現)であり、ダンスであり、歌であり、意識の延長という創作活動です。この創作活動は自己同一的作用で、別名「愛の拡大」と言います。

「愛の拡大」は「自己」の在り方を表現しているために、それを行い続けることで私たちは本来の「自己」を思い出して行くのです。

スピリチュアル・ドリーミングも「愛の拡大」の一つであって、ガイドがこの世界のドリーミングを使って神聖なあなたの美しさを表現しているものなのです。

絵を理解したいという考えを手放せば、そこに「愛」と「命」と「光」があることに気がつきます。これは新しいことを知ることではなく、忘れていたものを思い出すということなのです。

※「愛と命と光」の全一性はドリーミングではなく、霊的な真実です。

ドリーミングを確定する「意識」

ガイドの授業 秋保大滝での瞑想  私たちは「意識」についてあまりにも知りません。普段から「意識」を意識することはないですし、「意識」を超えた視点で「意識」をとらえてはいないからです。

「意識」というのは「魂」の“在り方”によってその作用を変えます。そして「意識」によって知覚される世界が変わります。

客観的な世界がどこかで作られていて、私たちはそこにお客さんのようにやって来ているのではありません。「魂」の在り方が存在“場”を作り、その“場”を分離の視点で捉えたときに、世界、他人、自分の肉体…と知覚されるのです。

「情報とエネルギーと意識」は一つですから、「意識」が変われば「情報とエネルギー」も変わります。信じていなくてもそうなのです。「信じるか、信じないか」というのはその人の選択ですが、信じていなくても世界はそこに体験されています。

最近流行のマインドフルネス瞑想では「意識」を意識するのに近いところまではいけますが、「意識」を超えた「霊」に目覚めるところまではなかなかいけないものです。

なぜなら、「意識」を超えた「霊」に目覚めるには、「本来の自己は“観測している者”を超えている」という気づきが必要だからです。この気づきはすでに目覚めている「ガイド」によってもたらされます。そのため、ガイドを受け入れ、その働きに身も心も任せる必要があります。理解を超えた状態となる、それまでの概念を超えるということは「自分」の努力では難しいことなのです。